初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。
まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。
私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍たち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶことで、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。
その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。
しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。
それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。
私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あまり、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊かさは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。
そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしまいました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。しかし人が人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だったのです。
「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。困っている人がいれば助ける。おなかがすいている人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったのです。
いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。
国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。
私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。
同工科大の長谷川祐司准教授らは、原子核を構成する中性子について、「スピン」という量を測定した。2種類のスピンを測ると、位置と速度の測定に相当する。その結果、二つのスピンを極めて正確に測定でき、不確定性原理を表す数式で示される誤差を下回った。
2009-05-18
(via gkojay) (via konishiroku) (via yaruo)で、気になってくるのは、この「閉じ込められたい願望」と「ギャルゲーシステム」の関係だ。
Key系以降のギャルゲーの物語ジャンルのひとつに、『自由な選択が取れない状態になるまで封じ込めこめられる』、というシチュエーションものがある。アージュ制作の「君が望む永遠」などは、この最たるものだ。どの娘に「告白」しても別のところに悲劇が起きる。その結果、身動き取れずにうじうじ悩んで現状維持を続け、事態をこじらせてしまう。
このバリエーションに、「サクラ大戦」から「学園黙示録H.O.T.D」に至るまでの、主人公が「戦闘美少女チーム」を「中間管理職」として率いる物語がある。「男が女を守るために戦う」のではなくて「超絶戦闘能力を持った女性たちをカードゲームのように駆使する」というタイプの物語だ。
この種類の物語では、たいていの場合「恋愛」が話に絡むが、主人公は現状を壊さないために、ずるずると決断を引き延ばし続ける。そして、そのうち主人公は、《身動きの出来ない》モテモテ状態に封印される。
初期の西尾維新のシリーズでも、同じことがいえる。
平凡な(と自分では主張する)主人公はたくさんの萌え属性キャラクタ(その大半は女性たち)によって、身動き取れない状態になるまで埋め尽くされる。
その「身動き取れない」を端的に書いたのが、「きみとぼく」シリーズの第一作目「君と僕の壊れた世界」だろう。ネタバレになるので詳しくは言わないが、この世界では主人公に複数の好きな女性(幼馴染/妹/尊敬)がいて、どこにアプローチしても世界が破綻する。
こういう
「世界を破綻させないために決断しない」
という言い訳は、オタクを閉じこめる最強の密室だ。新しい行動を起こさないための理由を提供し続ける。
ソーシャルゲームは面白いのか? はっきり書いておくとゲーム単体では面白くないと感じる物が多い。ソーシャルゲームだからソーシャル部分を抜いたら面白くないのは当然だが。 但し、そこにソーシャルな繋がりと、多くのユーザーが同時にやるという要素を組み合わせると爆発的に面白い。 更に人間の根源的な感情である自己顕示欲、承認欲求にも大いにリーチしてくる構成になっている。この仕組がとてつもなくすごい発明、発見だと思う。 ゲームの面白さはゲーム性だけで決まるわけではないという事を、脳が化石になった家庭用ゲーム開発者は早く気がつくべきだと思う。 ソーシャルゲームを馬鹿にする家庭用ゲーム開発者は腐る程いるが、現時点で我々はソーシャルゲームがやっている事の一部の業務を担当しているに過ぎない事に気がつくべきだ。
ゲームの面白さはゲーム性とコミュニティによっていくらでも変わるし、それらを相互に融合させたゲームをコンシューマーの枠組みの中で作るのはとても難しい。 例えば面白くない映画を100人で喋りながら見るのはとても楽しい。この場合面白くない事にも価値があることになる。 本来、価値がなかったものに価値を与えるという事が面白いという事はニコニコ動画の成功例で理解できるはず。
刑事がマグナム、バンバン撃ったって、いいじゃないか? 近未来の機動警察という設定でもいいじゃないか? せせこましいリアリティーを、わざわざ、劇場やTVで観せなくたっていいよ。ミタさんやベムがウケたのは、リアリティーを逸脱しているところでしょう?
一方で、仮面ライダーや戦隊シリーズが人気があるというのは、子供たちには活力があるということでしょう。
いずれ死にゆく老人の感性に合わせるのではなく、たとえ老人であっても心は若々しく少年のような無邪気な冒険心や正義感を忘れない活力のある作品を作っていけば、時代劇の復権は少しも難しくはないと私は思いますね。
具体的な対策として、TVの連続時代劇で『魔界転生』『シグルイ』『るろうに剣心』『サムライ・チャンプルー』を実写でやりましょう。これなら若い人も面白がって観ますよ。
NHKも地上波で時代劇枠復活させましょう。『あずみ』がいいですね。
以前、大河でMUSASIが奮わなかったのは、吉川版に拘ったからですよ。バガボンドを原作にしてやれば、ちゃんと視聴率取れたと思いますよ。
東映の『レッドシャドウ赤影』がコケてしまったのも、怪忍獣が出なかったからです!
何か、時代劇撮る時にオーソドックスな原作小説物を・・・って考えるから失敗するんですよ。


